踊る大捜査線ファイナルはひどい?評価が低い理由や感想を徹底解説

踊る大捜査線ファイナルはひどい?評価が低い理由や感想を徹底解説

国民的な人気を誇った刑事ドラマシリーズの完結編として、2012年に公開された映画「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」。

興行収入約60億円という大ヒットを記録し、有終の美を飾ったかに見えましたが、公開直後からインターネット上では「ひどい」「駄作である」といった辛辣な感想や厳しい評価が数多く飛び交う事態となりました。

長年にわたりシリーズを追いかけてきた熱心なファンであればあるほど、期待と現実のギャップに苦しみ、なぜあのような脚本や矛盾の多いストーリーになってしまったのかと、強い疑問を抱いたことでしょう。

特に、物語のクライマックスで恩田すみれがバスで倉庫に突入してくるシーンや、その不可解な演出からファンの間でまことしやかに囁かれた「幽霊説」、さらには物語の核となるべき犯人・久瀬に関する描写の不足など、納得のいかない部分が多々あるのも否定できない事実です。

15年という長い歴史を持つ「踊る」シリーズが、なぜこのような形で幕を閉じることになってしまったのか。この記事では、なぜこれほどまでに「ひどい」と評価されてしまったのか、

その理由をバナナ倉庫の演出やCGの品質、脚本の構造的な問題点といった多角的な視点から徹底的に掘り下げ、解説していきます。

この記事で分かること
  • 脚本の矛盾点やリアリティの欠如について具体的に理解できる
  • すみれさんのバス突入シーンや幽霊説が生まれた背景がわかる
  • バナナ倉庫などの演出がなぜ批判されたのか理由を知ることができる
  • 一連の低評価に対するファンの本音や作品の真意を整理できる

本記事は物語のネタバレ・結末に関わる情報を含みます。未視聴(未読)の方はご注意ください。

目次

踊る大捜査線ファイナルがひどいと言われる理由

踊る大捜査線ファイナルがひどいと言われる理由
イメージ:エンタメMAG

公開当時、劇場へ足を運んだ多くの観客が、エンドロールを見つめながら「これはいったいどういうことなのか」という困惑の念を抱いたと言われています。

シリーズの集大成として期待された「THE FINAL」でしたが、蓋を開けてみれば、多くのファンが抱いたのは感動ではなく違和感でした。その違和感の正体とは一体何だったのでしょうか。

ここでは、特に批判が集中し、現在でも語り草となっている主要なポイントについて、一つずつ具体的に検証していきます。

脚本の矛盾とリアリティの欠如

まず、作品の評価を決定的に下げてしまった最大の要因として挙げられるのが、脚本における数々の矛盾と、シリーズの根幹を成していたリアリティの欠如です。

「踊る大捜査線」という作品が1997年の放送開始以来、これほどまでに支持されてきた理由は、従来の刑事ドラマにありがちな派手な銃撃戦や爆破シーンを極力廃し、警察署を一つの「会社組織」、刑事を「サラリーマン」に見立てた点にありました。

本店(警視庁)と所轄(湾岸署)の間に横たわる軋轢、書類仕事に忙殺される日常、予算や接待に頭を悩ませる中間管理職の姿など、視聴者が自身の社会生活と重ね合わせることができる「圧倒的なリアリティ」こそが、この作品の魂だったはずです。

しかし、ファイナルにおいて提示された脚本は、そうした「踊るらしさ」を自ら否定するかのような展開の連続でした。物語は、警察上層部の腐敗や隠蔽工作をテーマに据えていますが、その描かれ方はあまりに漫画的で、極端にデフォルメされたものでした。

警察内部で使用される拳銃が犯罪に使用されるというプロット自体はシリアスで興味深いものでしたが、その解決プロセスにおいて、組織のシステム的な問題よりも、個人の感情や暴走が優先され、「組織ドラマ」としての深みが損なわれてしまったのです。

脚本における主な矛盾点と批判

組織描写の形骸化「所轄と本店」の対立構造が単純化され、全員が壮大な陰謀論に巻き込まれるだけの展開に変質してしまった。
物理法則の無視すみれが重傷の体で大型バスを運転する、犯人の行動範囲が非現実的など、物理的な制約を無視したご都合主義が目立った。
捜査プロセスの雑さ地道な聞き込みや証拠の積み上げよりも、青島の「勘」や偶然に頼った解決が多く、ミステリーとしての論理性も欠如していた。

また、多くの視聴者が「ひどい」と指摘する要因の一つに、物語終盤の展開における論理破綻が挙げられます。特に、犯人グループとの対峙において、警察官としての職務規定や物理的な制約が無視され、「映画的に派手であれば良い」と言わんばかりのご都合主義的なストーリー進行が目立ちました。

これは、初期シリーズから続く「緻密な伏線回収」や「地に足のついた捜査描写」を期待していた古参のファンにとって、裏切りに近い行為として受け止められました。脚本を担当した君塚良一氏に対し、ネット上では「サラリーマン刑事を描くというコンセプトを忘れてしまったのか」という厳しい声が相次ぎました。

かつて視聴者が熱狂した「サラリーマン刑事の悲哀」や「組織の論理と現場の葛藤」といったリアリティの基盤が崩れ、荒唐無稽なアクションや整合性の取れない脚本が前面に出たことで、コアなファンほど強い拒否反応を示したと言えるでしょう。

バナナ倉庫演出の意味不明さ

映画のクライマックス、物語の緊張が最高潮に達するはずの場面で、誘拐された子供を救出するために青島刑事が向かった先が「バナナの保管倉庫」だったという展開には、多くの観客が唖然とし、困惑しました。

青島が「バナナだ!犯人はバナナ倉庫にいる!」と叫び、それを受けた室井管理官が真剣な表情で「全捜査員に告ぐ、バナナだ」と指令を出すシーン。本来であれば、物語の結末を左右するシリアスかつ緊迫した場面であるはずですが、スクリーンに映し出されたのは、天井から吊るされた大量の黄色いバナナと、その間を走り回る刑事たちの姿でした。

この「バナナ倉庫」というロケーション設定は、多くの視聴者にとって「滑稽」以外の何物でもなく、映画全体のトーンを台無しにする演出として酷評されました。

なぜ、最終決戦の場がバナナ倉庫でなければならなかったのでしょうか。劇中では「子供はバナナが好きだから、犯人は子供を落ち着かせるためにバナナのある場所を選んだのではないか」というような推理がなされますが、あまりにも安直で論理的飛躍があると言わざるを得ません。

広大な湾岸エリアの中で、ピンポイントでバナナ倉庫を特定するロジックとしては説得力に欠け、「脚本の都合」を感じさせる強引な展開でした。

また、視覚的なインパクトとしても、黄色いバナナが画面を埋め尽くす光景は、シリアスな犯罪捜査の緊張感を著しく削ぐ結果となりました。

「踊る大捜査線 ファイナル ひどい」という検索キーワードにおいて、頻繁に関連語として「バナナ」が挙がるのは、このシーンがあまりにも強烈な違和感を残した証拠です。

本来であれば、湾岸署管轄の象徴的な場所や、物語的な意味を持つ場所が選ばれるべきクライマックスにおいて、なぜこのような突飛な演出が採用されたのか。

観客の間では「ふざけているのか?」「制作陣はウケると思ったのか?」という疑問と失望が渦巻き、作品評価を押し下げる大きな要因となりました。

緊迫感のあるサスペンスを描くはずが、シュールなコメディのような絵面になってしまったこの演出ミスは、シリーズの迷走を象徴するシーンとして語り継がれています。

すみれのバス突入と幽霊説

「THE FINAL」の評価を決定的に下げ、ファンの間で最大の論争を巻き起こしたのが、ヒロインである恩田すみれに関する一連の描写です。

劇中、すみれは過去の事件で負った銃撃の古傷や、直前の展開での疲労により、まともに歩くことさえままならない重傷の状態にあるという設定でした。

警察を辞めて故郷へ帰るために長距離バスに乗り込んだ彼女でしたが、クライマックスで青島たちの絶体絶命のピンチを知り、なんとその大型バスを自ら運転して倉庫の壁を突き破り、現場に突入してくるのです。

このシーンに関しては、公開直後から「物理的にあり得ない」「リアリティラインを無視しすぎている」といった批判が殺到しました。具体的には以下のような点が問題視されました。

バス突入シーンにおける主な矛盾点

  • 身体的ダメージの無視:
    満身創痍で立っているのもやっとの状態だったはずのすみれが、なぜ大型車両を正確に操縦し、建物の壁を突き破るという激しいアクションを行えたのか。
  • セキュリティとロジックの欠如:
    厳重な警戒態勢にあるはずの事件現場、あるいは封鎖されているはずのエリアに、なぜ民間車両であるバスで容易に侵入できたのかという説明が一切ない。
  • 乗客の安否とバスジャック疑惑:
    彼女が乗っていたのは営業中の長距離バスであり、他の乗客や運転手はどうしたのか(降ろしたとしてもそれはバスジャックではないか)という倫理的な問題。
  • メタ的なツッコミの違和感:
    現場にいた和久(甥)が発した「バスで来なくても」というセリフが、観客の気持ちを代弁するメタ的なツッコミとして機能してしまい、シリアスな場面を一気にコメディ化させてしまった。

さらに深刻だったのは、この突入シーンの演出意図です。

バスから降りてきたすみれの姿が、逆光の効果もあってどこか透けているように見える演出がなされていたこと、そしてその後のエンディングで彼女が明確に生存している描写が極端に少なかったことから、ファンの間では「すみれ死亡説」や「幽霊説」がまことしやかに囁かれる事態となりました。

実際、後のインタビューなどで本広克行監督が「死んだと思わせるような演出を意図的に行った」といった趣旨の発言をしたこともあり、この混乱は加速しました。

長年愛されてきたキャラクターに対し、生死不明のまま物語からフェードアウトさせるような扱いは、感動よりも混乱と不信感を招く結果となりました。

「ファイナル」という重要な局面で、ヒロインをあのような形で扱うことは、ファン心理を逆なでする行為であり、作品の評価を著しく損なう要因となったのです。

犯人久瀬の魅力不足と評価

刑事ドラマにおいて、主人公たちと対峙する敵役(ヴィラン)の存在感は、作品の質を左右する極めて重要な要素です。

しかし、シリーズファイナルの敵役として登場した久瀬智則(演:香取慎吾)に対し、そのキャラクター造形や魅力不足を指摘する声は後を絶ちません。

国民的スターである香取慎吾を起用したことは大きな話題となりましたが、結果としてその配役と演出が作品にプラスに働いたとは言い難い状況でした。

久瀬というキャラクターは、セリフが極端に少なく、無表情で淡々と犯行を重ねる「感情の読めない狂気」を体現しようとした形跡が見られます。

しかし、その演出が裏目に出てしまい、観客には「不気味」というよりも「何を考えているのかわからない」「単に棒立ちしているだけに見える」といった印象を与えてしまいました。

過去の劇場版に登場した犯人たち、例えば第1作の日向真奈美(小泉今日子)が放っていた圧倒的なカリスマ性や狂気的な存在感と比較すると、どうしても「青島たちが命を懸けて戦う相手としての格」が不足していたと言わざるを得ません。

他作品との類似性指摘:
また、久瀬の設定や動機、名前の響きなどが、アニメ『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』に登場する「クゼ・ヒデオ」を模倣あるいは参照しているのではないかという指摘も一部のファンから上がりました。孤高のテロリストという設定や社会システムへのアンチテーゼといった要素が類似していましたが、物語の中での深掘りが不足していたため、単なる表面的な引用に留まってしまい、オリジナリティの面でも批判の対象となりました。

犯人の動機や背景描写の希薄さも問題でした。彼がなぜそこまでの凶行に及んだのか、その悲劇性や社会への怒りが観客に十分に伝わってこないため、感情移入することも、恐怖を感じることも難しいキャラクターとなってしまいました。

本来であれば、ファイナルに相応しい最強最悪の敵として描かれるべきでしたが、脚本と演出の噛み合わせの悪さが、キャラクターの魅力を削いでしまった典型例と言えるでしょう。

チープなCGと映像品質への批判

2012年という、映画のデジタル技術が十分に成熟していた時期に公開された大作映画であるにもかかわらず、『踊る大捜査線 THE FINAL』のVFXやCG(Computer Generated Imagery)のクオリティが著しく低いという指摘も、多くのレビューで見受けられます。

特に批判が集中したのは、前述したバスが倉庫に突っ込むシーンや、クライマックス周辺の爆発・破壊シーンの映像です。

スクリーンで見るにはあまりに粗雑な合成映像は、観客の没入感を一瞬で削ぐ破壊力を持っていました。バスが壁を破る瞬間の挙動や破片の飛び散り方が物理的に不自然で、まるで一昔前の特撮やゲーム画面を見ているかのような安っぽさを感じさせたのです。

「踊る大捜査線」はもともと、派手なCGアクションよりも現場のリアリティを重視する作風でしたが、映画版としてスケールアップを図る過程で、映像技術の質が追いついていない印象を露呈してしまいました。

一部のファンの間では、「キャストのギャラに予算の大半を割いてしまい、ポストプロダクションやVFXに十分なリソースを回せなかったのではないか」という推測さえ飛び交いました。真偽の程は定かではありませんが、そう思われても仕方がないほど、映像のクオリティにバラつきがあったのは事実です。

初期のテレビシリーズが持っていた、低予算ながらも工夫を凝らした映像演出の良さが失われ、中途半端に派手でチープな映像になってしまったことは、作品全体の「作り込みの甘さ」を象徴しているようにも感じられ、「ひどい」という評価を補強する一因となってしまいました。

踊る大捜査線ファイナルはひどい評価だけなのか?

踊る大捜査線ファイナルはひどい評価だけなのか?
イメージ:エンタメMAG

ここまで、脚本、演出、キャラクター描写など、作品に対するネガティブな要素を詳細に挙げてきましたが、では『踊る大捜査線 THE FINAL』は誰にとっても価値のない、完全な失敗作だったのでしょうか。

興行収入約59.7億円(出典:一般社団法人日本映画製作者連盟『2012年(平成24年)全国映画概況』)という数字は、2012年の邦画実写映画として第2位の記録であり、商業的には間違いなく「大ヒット」を記録しています。

多くの人々が劇場に足を運び、15年続いたシリーズの最後を見届けようとした熱量は確かなものでした。それでもなお、評価が真っ二つに分かれ、酷評が目立つ結果となった背景には、ファンならではの複雑な心理と、制作側との意識のズレが深く関係しているようです。

すみれが辞める展開への不満

多くのファンが最も納得できず、心に深いしこりを残したのが、青島俊作と恩田すみれの関係性の結末です。二人は恋愛関係にあるわけではありませんでしたが、15年間という長い年月をかけ、警察という組織の中で互いに支え合い、背中を預け合う唯一無二の「同志」としての絆を育んできました。

ファンは、この二人の関係に何らかの明確な答え、あるいは希望のある未来が提示されることを期待して劇場へ足を運びました。

しかし、映画で描かれたのは、すみれが体調不良を理由に警察を辞め、青島にも告げずにひっそりと故郷の大分へ帰ろうとする姿でした。

そして前述のバス突入シーンを経て、エンディングでも彼女のその後の処遇や、青島との別れが明確に描かれることはありませんでした。

「すみれさんには幸せになってほしかった」「青島との関係にきちんとした決着をつけてほしかった」というファンの切実な願いに対し、映画はあまりにも曖昧で、ある意味で残酷な結末を突きつけました。

2024年新作での答え合わせ:
興味深いことに、この「すみれのその後」に関するモヤモヤは、12年後の2024年に公開された映画『室井慎次 敗れざる者/生き続ける者』において、ようやく公式な言及がなされることになります。新作では、すみれが過去に警察を辞めて故郷へ帰ったことが明言されており、当時の曖昧な結末に対する一つの「答え合わせ」が行われました。これは裏を返せば、12年もの間、多くのファンがファイナルの結末に納得できず、引きずり続けてきたことの証左でもあります。

シリーズの劣化と駄作の烙印

シリーズを重ねるごとに、初期の良さが失われ、作品の質が劣化していったという厳しい指摘も少なくありません。

テレビシリーズ時代は、所轄の刑事たちの地道な日常や、縦割り行政の弊害といった社会派なテーマと、絶妙なコメディリリーフのバランスが完璧でした。

しかし、映画化が進みヒット作となるにつれて、物語の規模ばかりが肥大化し、中身が伴わなくなっていったと感じるファンは多かったようです。

特に「ファイナル」では、シリアスな展開の中で唐突に挿入されるギャグ(スリーアミーゴスの小ネタなど)が「滑っている」「邪魔をしている」と酷評されました。

緊張感を高めるべきシーンで署内のドタバタ劇が挟まれる演出は、物語のテンポを崩し、観客の感情移入を妨げました。かつては物語の潤滑油だったコメディ要素が、ファイナルでは不協和音となり、「昔は良かったのに」「こんなの踊るじゃない」という失望感に繋がってしまいました。

その結果、一部のファンからは「シリーズの晩節を汚した駄作の烙印」を押されてしまう悲しい結果となったのです。

評価が低い理由の核心とは

結局のところ、評価がこれほどまでに低くなってしまった理由の核心は、「観客が求めていた『踊る大捜査線』の姿と、制作側が『THE FINAL』として提示した作品像との間に、決定的な乖離があった」という点に尽きるでしょう。

ファンが見たかったのは、巨大な陰謀や派手なアクションではなく、青島たちが知恵とチームワークで泥臭く事件を解決し、組織の理不尽な壁に挑む姿だったはずです。

「刑事もサラリーマンである」という独自の視点こそが、このシリーズを国民的ヒットに押し上げた原動力でした。しかし、ファイナルで提供されたのは、整合性の取れない脚本、奇をてらった演出、超人的なアクション、そしてキャラクターたちの不遇な扱いでした。

「最後だから派手に」「最後だからお祭り騒ぎに」という制作側の意図が空回りし、ファンが愛した「踊るらしさ」を置き去りにしてしまった。この期待と現実の深いギャップこそが、「ひどい」という強い言葉となって表出したのだと考えられます。

香取慎吾演じる久瀬の是非

犯人役のキャスティングについても、賛否両論が巻き起こりました。国民的アイドルである香取慎吾さんを、シリーズ最後の敵として起用したことは、興行的な話題作りとしては成功だったかもしれません。

しかし、作品の質という観点からは疑問符がつきました。普段の明るいイメージとは真逆の、感情を排したサイコパス的な犯人役を演じた彼に対し、「ミスキャストではないか」という声が上がったのです。

ただし、これは俳優本人の演技力の問題というよりは、演出と脚本の責任が大きいという見方もできます。セリフを極限まで削ぎ落とし、「無言の狂気」を演出しようとした結果、動機や背景が見えにくくなり、キャラクターとしての深みが失われてしまいました。

観客は彼に対して憎しみも同情も抱くことができず、ただ「そこにいる異質な存在」としてしか認識できなかったのです。キャラクター造形の失敗が、結果として俳優への評価にも影を落とし、作品全体の不完全燃焼感を助長させてしまった事例と言えるかもしれません。

まとめ:踊る大捜査線ファイナルがひどいとされる真意

「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」が「ひどい」と言われる背景には、脚本の矛盾、バナナ倉庫などの不可解な演出、すみれをはじめとするキャラクターへの扱いの雑さなど、複合的な要因が絡み合っています。

しかし、これほどまでに熱く語られ、10年以上が経過してもなお批判的な意見が絶えないこと自体が、このシリーズがいかに多くの人々に深く愛されていたかの裏返しでもあります。

「ひどい」という言葉の裏には、単なる悪口ではなく、「もっと良い終わり方があったはずだ」「大好きな作品だからこそ、完璧なフィナーレを見たかった」という、ファンの切実でやり場のない愛情が隠されているのです。

商業的には成功を収めましたが、作品評価としてはシリーズの輝かしい歴史に小さな影を落とす結果となりました。

これから視聴する方へ
もし、これから過去作を見直そうと思っている方や、2024年の新作映画「室井慎次」シリーズを見て気になった方は、ぜひご自身の目でこの「ファイナル」を確かめてみてください。ネット上の批判が正しかったのか、それとも違った解釈ができるのか。批判されているポイントも含めて確認することで、なぜこのシリーズがここまで議論を呼ぶのか、その熱量を肌で感じることができるはずです。

※本記事の評価や分析は、公開当時のレビューや検索データを基にした筆者個人の見解を含みます。作品の感じ方には個人差がありますので、あくまで一つの視点として参考にしてください。

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この記事を書いた人

「エンタメMAG」は、ミステリー小説や時代小説など小説全般をはじめ、映小説や映画・ドラマなどを取り扱うエンタメブログです。話題の作品紹介やレビューに加え、「作家やシリーズ作品の読む順番」 といった役立つ情報をまとめています。元古本屋店員、Audible歴4年(聴き放題制以降前から)のオーディオブック愛好者で、耳で楽しむ読書「オーディブル」に関する情報も豊富に発信しています。

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